奥の細道 なぜ?
芭蕉庵の焼失、故郷の実母の死、飢饉などの心痛が重なったことを契機に、残り少ない人生を考え、自分の俳諧の完成を目指して旅に出ることにしました。 冒頭部分に「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年も又旅人也」(現代語訳/時は永遠の旅人で、人生は旅そのものである)とあるようにその決意が表れています。『おくのほそ道』の旅の出発当初の目的は、みちのくの歌枕を訪ねて心の世界の展開を試みることだったのですが、その心の世界は帰り道にさらなる展開をとげ、芭蕉は思いもしなかった旅みやげを二つも手にしたというわけです。『おくのほそ道』の旅は、1689年春に江戸深川(※2)を舟で出発し、千住(※3)から陸路を北上。 当時芭蕉は46歳、弟子で6歳年下の曾良(そら)を伴っての二人旅の最大の目的地は、松島、平泉と象潟(※4)でした。 東北から北陸へと歌枕などをまわり、終着点の大垣までの5カ月間、2400㎞にわたる長旅でした。

松尾芭蕉が奥の細道で伝えたかったことは何ですか?芭蕉が『おくのほそ道』の中で何を伝えんとしているのかと言うと、その意図は「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」という有名な冒頭文に集約される。 現代の言葉で解釈すると、「月日は永遠の旅人であり、やってきて過ぎ去っていく年も旅人である」。

奥の細道 何を求めた?

元禄2年(1689)3月27日、芭蕉は門人曾良を伴い江戸を発ち、奥羽・北陸の各地をめぐり、8月20日過ぎに大垣へ着くまでの、距離約六百里(約2,400キロ)、日数約150日にも及ぶ長旅である。 旅の目的は、歌人能因や西行の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を探り、古人の詩心に触れようとした。『奥の細道』は、江戸中期の俳諧紀行です。 元禄2年(1689)3月、松尾芭蕉が門人の曽良と江戸深川(現・東京都江東区)を出発、奥州・北陸の名所・旧跡を巡り、8月に大垣に至るまでの紀行を、発句をまじえて記したものです。

松尾芭蕉が旅に出た目的は?

芭蕉さんにとって「おくの細道」の旅の目的は、古い和歌に詠まれていた歌枕の地を踏みながら、俳諧修行を積むことだけでなく、「敬愛する西行の訪ねた地を自分の足で歩いてみたい。

芭蕉は『奥の細道』の旅を大垣でむすびましたが、はじめて大垣を訪れたのは、『野ざらし紀行』の旅の途中、貞享元年(1684)9月下旬のことです。 目的は以前から親交があった船問屋の谷木因を訪ねるためでした。 このとき、木因宅に1か月ほど滞在し、木因の仲立ちで大垣の俳人たちが新たな門人になりました。

芭蕉にとって奥の細道の旅とは?

芭蕉にとって「おくのほそ道」の旅は、能因・西行・宗祇などに歌われた歌枕や名所を訪ね歩き、古人と心を重ね合わせ、俳諧を和歌や連歌と同等の格調高い文芸に位置づけたいという思いを強く持った旅でした。松尾芭蕉のすごいところは、現在の俳句の大もとを作ったところ。 人生をかけて、俳句とは何か、俳人とはどうあるべきかを探しもとめ、のちの世代の俳人たちのお手本となりました。 「芭蕉庵」とよばれた小さな家で、そして全国各地への旅を通して、俳句に向き合い続けた松尾芭蕉。芭蕉が晩年盛んに旅をした理由は、隠遁者の行脚(あんぎゃ)修行を目指したほかに、歌枕など古典文学上の名所・旧跡を実際に見たいという願望や、能因・西行・宗祇など先人たちの足跡を慕う心に求めることができよう。 芭蕉流の俳諧を広げようとする意図もあったに違いない。

新しいこと・もの・人により多く出会うことによって、時間はより長く、厚みを持ったものとなります。 芭蕉にとって旅とは、「西行や李白といった旅の中に生きた古人へのあこがれ」という側面もありますが、「新しい物事を見たい・聞きたい・知りたい」という好奇心の発露でもあったのではないでしょうか。

松尾芭蕉は何をしたのか?江戸時代の俳人。 伊賀の武士出身で、わび・さびで示される幽玄閑寂の独自の俳風を確立。 芭蕉の生涯は日本各地を旅して、名所旧跡を回り、歌枕(古来、和歌の題材になっているもの)を巡り、様々な人とまじわっている。 それは、『笈の小文』『更級紀行』『野ざらし紀行』などの書物に残され、最も有名なのは晩年の『おくのほそ道』である。

奥の細道の旅は誰がしたの?元禄2年(1689)3月、松尾芭蕉が門人の曽良と江戸深川(現・東京都江東区)を出発、奥州・北陸の名所・旧跡を巡り、8月に大垣に至るまでの紀行を、発句をまじえて記したものです。 元禄2年3月27日に江戸深川を出立した芭蕉は、門人の曽良をともない、東北・北陸地方をめぐり、8月21日に大垣に到着しました。

芭蕉はなぜ旅に出たのか?

芭蕉が晩年盛んに旅をした理由は、隠遁者の行脚(あんぎゃ)修行を目指したほかに、歌枕など古典文学上の名所・旧跡を実際に見たいという願望や、能因・西行・宗祇など先人たちの足跡を慕う心に求めることができよう。 芭蕉流の俳諧を広げようとする意図もあったに違いない。

元禄2年(1689)3月27日、芭蕉は門人曾良を伴い江戸を発ち、奥羽・北陸の各地をめぐり、8月20日過ぎに大垣へ着くまでの、距離約六百里(約2,400キロ)、日数約150日にも及ぶ長旅である。 旅の目的は、歌人能因や西行の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を探り、古人の詩心に触れようとした。その理由や目的を問わず、旅をすることは、日常生活を一時的に離れて自己を見直すという意味を共通して持っています。 平素とは違った環境での、自然や文化あるいは人々との出会いは、自己確認と発見の新たな機会をつくってくれるのです。その理由は簡単です。 その年の東北・北陸は異常に暑く、芭蕉も暑さに閉口していたからです。 だから最上川の川風を受けて、素直に「涼しい」と詠んだのでしょう。