室町時代の茶の湯の有名人は?
茶の湯の偉人は千利休だけじゃない! 伝説の茶人10人まとめ

  1. 1 小堀遠州(こぼりえんしゅう)
  2. 2 古田織部(ふるたおりべ)
  3. 3 柳宗悦(やなぎむねよし)
  4. 4 武野紹鷗(たけのじょうおう)
  5. 5 益田鈍翁(ますだどんのう)
  6. 6 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)
  7. 7 松平不昧(まつだいらふまい)
  8. 8 原三溪(はらさんけい)

室町時代

  • 一休宗純
  • 足利義政
  • 村田珠光 – 奈良流、珠光流。
  • 武野紹鷗 – 堺流。
  • 能阿弥 – 東山流。
  • 志野宗信 – 志野流。
  • 玉置一咄 – 瑞穂流。
  • 古市澄胤

国際貿易などで大きな富を成した堺の商人たちの間で、「茶の湯」(現「茶道」)は広まっていった。 この「茶の湯」を「わび茶」として発展させたのが、堺の商人出身の武野紹鴎(じょうおう・千利休の師匠)である。 利休は織田信長、豊臣秀吉の茶頭(さどう)となり、歴史に名を残した。

室町時代 茶の湯 誰?千利休 千利休(1522〜91)は、室町〜安土桃山時代の茶人で、一般的に「茶の湯の大成者」として知られています。

お茶が好きな武将は誰ですか?

茶道を求め熱中した武士

初代将軍、徳川家康も茶道を好み、将軍の地位につく以前から千利休、古田織部、千宗旦らの茶会にしばしば参加していたことが知られています。 家康は茶会を好み、茶器の収集にも熱を上げ、晩年に過ごした駿河の駿府城では、美味しいお茶を飲むため、山間に「お茶壺屋敷(お茶蔵)」まで建てていました。中国(宋)で臨済禅を学んで帰国した栄西(えいさい/ようさい)が、当時の宋で飲まれていた「点茶法(てんちゃほう)」によるお茶の飲み方を日本へ伝えたとされています。

茶道の第一人者は誰ですか?

利休の死後、茶の湯の第一人者となったのは、利休の弟子の古田織部でした。 「茶湯名人」と称された織部は、利休が完成した茶道を広く展開していく役目を果たしました。

室町時代(15世紀)には中国からの舶来品「唐物」を座敷飾りや道具にもちいて茶の湯が成立。 安土桃山時代(16世紀)にいたり、千利休が茶の湯を大成します。 以来400余年、茶の湯は日本人の暮らしとともにあり、こころの豊かさと楽しみをもたらしています。 日本の美術工芸の粋は茶の湯にすべて内包されるといわれてきました。

豊臣秀吉に茶の湯を教えたのは誰ですか?

千利休は次の天下人となった豊臣秀吉にも乞われて、茶頭を務めます。 千利休の茶の湯は政治の道具としての性格を強くしていきました。 豊臣秀吉は千利休を重用し、黄金の茶室を設計させた他、北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ:豊臣秀吉が京都の北野天満宮境内、北野松原で行なった大茶会)のプロデュースなども任せました。鎌倉時代に中国から入ってきた喫茶の習慣は,茶の湯の流行 を生み,織田信長や豊臣秀吉に仕えた千利休(1521〜91)によ って,質素なわび茶の作法が完成されました。お茶にまつわる人物

  • 最澄 平安時代初期の僧で、天台宗の開祖。
  • 空海 平安時代初期の僧で、真言宗の開祖。
  • 栄西 鎌倉時代初期の禅僧で、臨済宗の開祖。
  • 明恵上人 鎌倉時代前期の華厳宗の僧侶。
  • 村田 珠光 室町時代中期の茶人で、茶道の基礎となる「わび茶」の創始者。
  • 千 利休
  • 前田 利家
  • 古田 織部


●家康も愛した静岡のお茶

1607年、大御所となられて駿府城(現在の静岡市)に入城した家康公は、駿河でつくられる安倍茶(あべちゃ・現在の静岡本山茶・しずおかほんやまちゃ)を楽しみました。 そのおいしさを満喫するため、標高1000mを超える静岡市北部の井川大日峠に、お茶を保管するための蔵を建てさせました。

石田三成は豊臣秀吉にお茶を飲ましましたか?石田三成は、豊臣秀吉に初めの1杯を「ぬるめのお茶を大きめの茶碗」に入れました。 豊臣秀吉がそのお茶を飲み干すと、今度は「少し熱めのお茶をやや小さめの茶碗」に入れます。 もう一度飲み干すと「熱いお茶を小さい茶碗」に入れて持ってきました。

日本で最初にお茶を飲んだ人は誰ですか?日本で、お茶を飲んだという、歴史上の最初の記録は、『日本後記~にほんこうき~』という歴史書にあります。 815年4月22日、近江(滋賀県)の梵尺寺(ぼんしゃくじ)で、永忠(えいちゅう、743~816年)という偉いお坊さんが、嵯峨天皇(在位809~823年)に茶を煎じて献上した、と記されています。

平安時代に飲まれていたお茶は?

奈良・平安時代に飲まれていたお茶は、「餅茶(団茶)」と呼ばれるお茶でした。 餅茶は、蒸した茶葉を粉状にし、仕上げの段階で餅のように固めたお茶で、 飲む時には必要な分を切り取って火であぶり、それを粉末にしてから熱湯に入れて飲んでいました。

茶道具を制作する職家 千家十職

実は茶道の文化は単純にお茶を点てるという所作だけでなく、文化を支える仕事に“千家十職(せんけじっしょく)”という職の人たちが居ます。 千家十職とは三千家(茶道の主な流派、表千家・裏千家・武者小路千家の総称)に出入りし茶道具を制作する職人や作家を指します。茶道の起源は、日本の特異な美意識と精神性の表現の一環と言えます。 その歴史は中国の唐代から伝来したお茶の礼儀を基盤にしており、室町時代の臨川僧正象印がこの文化を精神性の表現として受け入れたことから始まります。秀吉が気になってさらにもう一杯頼むと、出てきたのは小さな茶碗に入った熱いお茶。 渇いた口でも飲みやすいぬるめのお茶からはじめ、徐々に熱くしたものを出す。 飲む相手を思いやったおもてなしをしたこの小姓さんこそが三成その人だったのです。